ヒデとマダムの問わず語り 〜好きにさせてよ〜

とあるアンダーグラウンドなバーのオーナー「ザマさん(ヒデ)」と70年代生まれの通称「マダム」が、アート中心に好き勝手語るバーチャルサロンです。よろしくどうぞ。

ヒデのつぶやき映画評 ~マーチン・スコセッシ『沈黙』を観て~

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マーチン・スコセッシ監督の映画『沈黙 サイレンス』を観た。

かつてスウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン監督の作品にも邦題が同じ『沈黙』という、神の不在を描いた映画があった。
遠藤周作の原作を読んでいない僕は『沈黙 サイレンス』も神の不在を描いた作品かと思っていたのだが、
映画を観ていくうちに、この作品は信仰の在り方を描いた映画であった。

キリスト教に対する徹底的な弾圧が行われた江戸時代に日本にやってきた、アンドリュー・ガーフィールド演じるポルトガル人宣教師ロドリゴは当初、弾圧され、貧しく生きる隠れキリシタン達の救いになる事に喜びを感じる。だが、生き延びる為に棄教を繰り返す、窪塚洋介演じるキチジローの密告により、幕府に囚われたロドリゴは自らをキリストに重ねていく。  
 そして殉教する事によって囚われた隠れキリシタン達を救おうとするのだが…。

無宗教の僕は、殉教という崇高さにキリスト教がやらかしてきた植民地主義的な支配の奢りやISのテロリズムの恐怖を感じてしまう。

しかし、奉行の井上(イッセー尾形が素晴らしい)はロドリゴに対して、棄教しなければ「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と、
隠れキリシタン達を拷問にかけると迫るのだ。

ずっと沈黙していた神がそこで、ロドリゴに語る。

僕はこの映画に殉教と棄教という対比を凄く感じた。それは、教義と現実の矛盾という対比でもあり、ロドリゴとキチジローとの構図でもある。最初キリストとユダのようだった2人の対比は、棄教を繰り返し逃げ惑う「弱い人間」と軽蔑していたキチジローが、次第に自分の中に潜むもうひとりの自分、という構図に変わっていく。
卑近で弱い中にこそ聖なるものがあるのではないかと変わっていくのだ。

それはベルイマンの『沈黙』で何も語らず、何もできず、ただ神の沈黙に苦しむ人々の全てを見ている少年が神の目線だったように。あるいはスコセッシの『最後の誘惑』でイエスが処刑される直前にマグダラのマリアとのありふれた幸せを夢見るように。

僕はキリスト教のまともな知識を持っていないので、もしかしたら非常にとんちんかんな感想なのかもしれないが、ロドリゴがキチジロー(弱さ)を許した時に、神の沈黙(神の弱さといったら語弊があるか)を受け入れられるということを、この映画は描いているように思えた。

日本の俳優たちの演技も素晴らしく、またステロタイプではなく、キリスト教を弾圧する側の理論もきちんとと描かれており、3時間近い作品ではあるが全く飽きずに観る事ができた。

おかえりJK! 〜Jamiroquaiの再襲来〜

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ジャミロクワイが新譜出すねえ!」

美味しい物を食べることについては努力を惜しまないアンダーグラウンドなチーム、通称「豚部」所属の美保嬢が、遅ればせの新年会と称して、松坂牛のしゃぶしゃぶを食べに我が家にやってきたのは3週間前のことだった。

「え!そうなの!?それは知らなかった!…JKがついに帰ってきたのか…!!」


90年代を多感なティーンエイジャーとして過ごした世代の私達、
特に私個人にとってJamiroquaiは、間違いなくアイドルである。

そして遂に今朝、カーラジオのInterFMからまさしく新曲「Cloud 9」を聴いた時の第一印象は、
「やることやってんね・・・!」であった。
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Jamiroquaiといえばベムベム弾む図太いベースライン、早過ぎず遅過ぎずの「ちょーどいい」BPM
そしてどこにいようが聴いている空間をダンスフロアにしてしまうマジカルな仕上がり。
半音上がり、半音下がる心地の良いメロディ運びは相変わらずで、助手席で思わず、「おかえり、JK!」と叫んでしまったのである。

裏を返せばそのJamiroquai節は90年代にすっかり味わい尽くされ、消費されたとも言えるが、

だからどうした、私は待ってたよ。


あの時打ち出されたメッセージは強烈で、歌詞を読むだけでも意義があった、だけどそれから世界はどうなってる?


再びJamiroquaiがアラートを鳴らし始めた。



テクノロジーとAIの台頭で我々が失いつつあるもの、世界の道しるべをもう一度。 


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ストーンズ

BS TBSで、ストーンズがフューチャーされていた。SONG TO SOULという音楽番組だった。

昨年リリースされた新譜「BLUE & LONESOME」を私は知らなかったのだが、チャンネルパトロールを止めた亭主につられてテレビを見上げると、ブラックスパンコールのタイトなジャケットを着たロン・ウッドが相変わらずキラキラした目で語っているのが目に入った、私は思わず呟いた、


「エレガント…!」


無意識に自分が発した言葉で気付いたのだが、稀代の不良青年達は、世界中でロックンロールし続けてきた結果、極めてエレガントな存在になっていた。

インタビューに答えるメンバー達はまごうことなき爺さん連ではあるけれど、相変わらずの身のこなし、身体を縁取るキレの良い輪郭、フサフサの髪の毛(何故ロッカーにはつるっぱげがいないのか?)ー。


「相変わらずかっこいいジジイ共だな!」

数年前、来日コンサートに行ったきりの亭主がグラスにウィスキーを注ぎながら呆れるように言う。

新譜は全編ブルースなの?と問うと、
「やつらのベーシックに戻ったんだろ」


最前線を走り続けて尚、初期のフォーマットをキープしながらスパークするという神業、
まさしくシャイン・ア・ライト

無駄なものは常にわかっていて、
そろそろベーシックなやつを愉しもうぜなんていうのは、まさに70才だから堪能出来る領域なんじゃないの。

かつてのロック、セックス、ドラッグの溢れ出る才能と金、唯一無二の魅力ー。ステージでガリガリに痩せた身体をビンビンに跳ねさせていたあの頃から、このエレガンスを誰が想像し得ただろう?



全編に鳴り響くミックのブルースハープチャーリー・ワッツがこう説明する、

「みんなミックのボーカルのことばかり言うが、奴のハーモニカは凄いんだ、たいした才能だよ」



いつが終わりなんて誰にもわからない、

明日どうなるかなんて分かった試しはない、

でもミックが踊れて、チャーリーの背中がもって、キースの指が動く限り、俺たちはやり続けるよ、とスマイルする笑顔の皺に、私達は限りない敬愛の念を表する。


ただ好きなように転がり続けるだけさと言い切れるロックスピリッツにこそ、エレガンスの極致がある。

マダムのショートショート 〜倦怠〜

締め切ったカーテンからわずかに溢れる朝靄の光、2人の人間が気兼ねなく寝返りを打つには少し窮屈なセミダブルのベッド、糊がついていないためにかえって馴染みやすいシーツは角からめくれて剥き出しのスプリングマットに裸の爪先が触れる。

傍らの女はこちらに背中を向けたまま、柔らかな寝息を肩で伝えている。

遠くで派手に空き缶を蹴る音が響き(どうやらうまいこと電柱に命中させたらしい)、追いかけるように吼えたてる犬の鳴き声がこだまする。

何気なく女の肩に触れてみようかと思ったが、「何気ない」気分の奥底に沈殿する、作為的なある種の企みに気付き、ずり落ちたブランケットをかけ直すにとどめた。

サイドボードに置いてあったはずの時計、アンティーク風の、よくあるあの手の目覚まし時計が見当たらない。恐らく女が意図を持って(「ここにいる時は時間を気にしないで欲しいの」)シャワーを浴びる際に、洗面所かどこかにでも持って行ってしまったのだろう。

女は、昨夜の微睡みのきわに、明日目が覚めたらブランチをしに行きたいと言った。角に新しくカフェが出来たのだと。

湯気を立てるコーヒーに、ハム&チーズのクロックムッシュ、ホワイトマッシュルームとグリーンリーフのサラダ。白ワインを一杯オーダーするのもいいかもしれない、確かにそれは彼の好物に違いなかった。スタンドで比較的リベラルなニュース誌を買って隅々まで読み込む、所々議論を交わしながら、ピカピカに磨かれた灰皿で最初の煙草の一本をねじり消す密かな悦び。

洗い立ての明るい顔に赤い紅だけを引いた女と並んで、街路を見ながら2本目の煙草に火を点けるのは、どれほど満たされた気持ちになるだろうか。

だがしかし彼は、その気持ちがどういうものだか分かりきっていた。彼を満たすものの限界と彼自身の容量。それはこれまでにも幾度となく繰り返され、値踏みされ、消費されてきたデジャブ/瞬間だった。

丸テーブルの向こうで優雅に脚を組み直し(ああ、前の晩の狂騒よ!)、コーヒーの後で炭酸水をオーダーする女。小さなハンドバッグからコンパクトを取り出し、剥げかけた口紅を気にしながらも新たに引き直さないのは、「部屋に戻ってもう一度」のサインなのだ。

彼には全てわかっていた。
あと少しで傍らの女が目を覚まし、彼の首に手を回して水を一杯持ってきてくれとねだり、起き抜けにタバコを吸うためカーテンと窓を開けるよう頼むことを。

裸のまま部屋を横切り、トイレのドアを完全に閉めないまま用を足し、そしてその最中に「わざわざ」彼と何か会話を交わしたがることを。
(それはさっきまで見ていた夢の断片についてであり、ここ数週間のうちに新しく買い物リストに加わった新しいシューズの値段についてであり、ふと思いついたオーブン料理のレシピについてのアイデアであった)

女の視線、物腰、あらゆる言葉遣いは「くびったけ」の峠を越して、関係が愛着の領域に入りつつあることを明確に指し示していた。

やがてこの小さなアパートにも朝陽が差し込む、静寂を伴った光は本棚の枠にうっすらと積もった埃や、カーペットの色褪せたゴブラン織りの柄を浮かび上がらせるだろう。

彼はその全てを受け入れ、慈しんだ。彼と彼女を取り巻く世界の諸々を。



その晩、彼は女のアパートに帰らなかった。
その次の日も、その次の季節も、その次のクリスマスも、女の元に帰ることはなかった。


女に残されたメッセージは、何一つなかった。



Photo By ザマ

クリスマスの贈り物

ビリー・レッツという女性はアメリカのオクラホマ・タルサで生まれ、その地で結婚し3人の子を産み育て、俳優兼教授でもある夫と生涯連れ添い、そしてその地で亡くなった。

作家としてデビューしたのは50を過ぎてからだった、うち一冊は脚本家の息子と協働して映画化もされている。

作者あとがきには、
「作家としてデビューはしたけれど、私は変わらず愛する家族のためにチキンフライを揚げたり、釣りをしに出かける日々です」

と記されていて、改めて彼女の作品を顧みるに、地に足をつけてこその視点、人生賛歌を歌い上げる胆力を垣間見ることができる。

二冊目の著書、「ハートブレイク・カフェ」はタイトルからして表で読む際にはカバーをかけざるを得ない、なんともセンチメンタルな意趣に満ちた邦題が付けられているが、原題は“The Honk and Holler Opening Soon”

即ち、「ホンク&ホラー近日開店」である。


舞台はアメリカオクラホマ
片田舎のパッとしないダイナーで、ある年のクリスマスから翌年のクリスマスにかけて繰り広げられる人間ドラマ。

大人になれば誰もが痛みや傷の大なり小なりを抱えて生きている、

そして大抵は、「癒しなんかくそくらえ」とばかりに、日々をやり過ごす(本当は魂から欠落したかけらを探しているにも関わらず)。


ダイナーを営むのはヴェトナム戦争で半身不随になった30男、ケイニー。

女将はいつも不良娘の行方を心配しているトレーラー住まいのモリー・O。

店には今日もそれぞれに偏屈で、ちょっとずつ人生に疲れた人達が朝の一杯を飲みに、ランチを食べに、訪れる。しみったれたダイナーの、穏やかで決まりきった毎日。

そんなある日、カウボーイブーツを履いたインディアンの娘が現れて、小遣い稼ぎの為にカーホップ(駐車場での客引き)をやらせてくれないかと頼み込むー…


設定も背景も出てくる料理も、無論日本にいる我々からするといかにも「ザ・アメリカ!」なのだが、読み進めて行くうちに、いつしか人種や国を忘れ、登場人物達に感情移入させられていることに気付く。

そこに描き出されているのは、普遍的な人間としての姿ー 真実を求め、また、求めながらも「大人」ゆえに、目を逸らそうとする切ない心の動き、
不器用さや傷付きやすさ、もうどうにもならない過去に人はどう向き合うのか。
そして赦しへの道標と、その先にあるものー

そういった世代や人種を超えた(事実、この小説の中では白人、先住民族、アジア人のキャラクターが出てきて、それぞれ主軸となるテーマでもってこの物語を織り上げていくのである)、「ハートの中の問題」「スピリットの在り方」が提示されていくのである。


時に痛快、時にハラハラ、
そして心温まるラストに涙じんわり、やだなぁもう。電車の中じゃ、ちと恥ずかしい。


でも、一年に一度。

我が国もクリスマスはもはや当然のホリデイシーズン、


読んだらきっと、少しだけ、いつもより優しくなれる。



そんなクリスマスの贈り物を、自分にも。

ハートブレイク・カフェ (文春文庫)

ハートブレイク・カフェ (文春文庫)

雨の中で踊れ

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雨の中で踊ったことはあるかい?



もしあるなら君はハッピーな人だと思う



泥の中に寝そべって、


大笑いしてる奴を見たことはあるかい?


雨上がりの空に大口開けてさ


全く馬鹿げた話だけど



満員電車の中でポケモンGOやってる場合じゃないんだぜ、
窓ガラスに映った自分の顔を見てみなよ、
バーチャルモンスターが繋げてくれるなんてまやかしさ、それはただの断絶、




雨の中で踊るんだ、



雨の中で踊るんだよ、



これ以上孤独を極めて

その先どうするつもりだい



濡れネズミ

隣同士ニッコリし合えれば儲けもんさ

調子の取り方がわからないなんて
ご先祖様が悲しむぜ


祝福の仕方を忘れたのかって

感謝の行方を忘れたのかって




顔を上げるんだ


この世界には

まだ綺麗なものが残ってて


それを見つけるのは君の責任なのさ



愛し方を忘れたのなら



雨の中で



踊ればいい

エクスタシーの臨界点

仕事終わりに電話をすると、
亭主が「地上630mで会おう、待ってるよ」と言う。

ムスメを連れてスカイツリーを訪れているらしい。


バスを乗り継いで現地に向かう、

下町に聳え立つバベルの塔

東京タワーとは異なる趣の、異形の建築物。



チケットを買って展望フロアに向かう。



高所恐怖症の私は案の定脚がすくむし腰がひける、
『2,000円も払ってわざわざ怖い思いしに行くなんて、馬鹿みたい』。




若い頃鳶職だった亭主は、高所に対する恐怖心というのがあまりない。

厳密に言うとあるにはあるらしいのだが(「逆にいつも怖いな、危ねえな、って思ってなきゃダメなんだよ、
それが注意力だから、でなきゃ本当に落ちちまう」)、

恐怖心を飼い慣らすことが出来るということなんだろう、


「仕事だからな」

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