ヒデとマダムの問わず語り 〜好きにさせてよ〜

とあるアンダーグラウンドなバーのオーナー「ザマさん(ヒデ)」と70年代生まれの通称「マダム」が、アート中心に好き勝手語るバーチャルサロンです。よろしくどうぞ。

ヒデのお絵かきとマダムのポエム


俺を満足させてくれ


襞と襞の間を縫って



沈黙と絶頂の狭間に導いてくれ


生ぬるいお前の囁きに

ありもしない幻想へと
導き出される時が知りたい



俺を試してくれ



どれだけかき乱されても構わない



お前の地底を舐め尽した後

報われるなんて思うわけもない



ただ俺を満足させてくれ


俺を満足させてくれないか






絵 ヒデ/詩 マダム

ヒデのお絵描き













1枚目「Not satisfaction、または哀しみのダニエル」

2枚目「金曜日の憂鬱」もしくは「原子より」


3枚目「3月のつみき」


4枚目「ブードゥー・ラウンジ」


5枚目「After Patience」


6枚目「Recipe of beat 〜ビートのレシピ〜」


7枚目「C21H23ClFNO2. 」

タイトルby マダム

ヒデの映画評 〜ベルリン 天使の詩『分断と統合』〜

先日、鎌倉の川喜多映画記念館で、数十年ぶりに『ベルリン天使の詩』を観てきた。

「子供が子供だったころ、自分が子供と知らず、全てに魂があり魂は一つだと思っていた」

という詩の一節からはじまる『ベルリン天使の詩』には、いくつかの対比(分断)が、ヴィム・ヴェンダース監督が敬愛する小津映画のシンメトリックの構図のように、随所に散りばめられている。そしてその対比が一つに統合されていく物語であった。

対比のフラクタル

冒頭の詩「子供が子供だったころ」という短いセンテンスの中に、大人とは子供を忘れた子供という対比(分断)があり、「全てに魂があり魂は一つだと思っていた」の言葉の中に統合の予兆を感じさせる。

映画が進むにつれ、天使を見る事ができる子供と、見る事ができない大人。人々の心の声を聴くだけで救えることのできない天使と、孤独や苦悩を抱える人々。モノクロームとカラー。苦悩と歓喜。過去と現在。男と女。そして東西のベルリンと、いくつもの対比が描かれる。
 寄り添うだけで人を救うことも出来ず、山本耀司のコートを着て図書館に屯す天使達も、天使のダニエルが自らを「霊」と言っていたように、天使から分断された者たちなのかもしれない。
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そしてその対比が統合へ向かっていく。
ナチの支配と敗戦による東西の分断という過去は、ホメーロスという古代ギリシャの吟遊詩人の名を持った老人によって、現在に語り継がれようとしている。
子供を忘れた大人は元天使で人間となって人生を謳歌しているピーター・フォーク(本人役)として。
天使と人間は、主人公の天使ダニエルがサーカスの空中ブランコの女、マリオンに恋をして人間となる事で…。
苦悩と歓喜は人間である事の痛みや、或いは苦しみさえもが生きている喜びであると…。
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統合という名の愛

ダニエルは人間になった時に怪我をして、その痛みと頭から流れる血に歓喜し、マリオンも必然の恋人ダニエルと出会った時に「これで私も孤独を感じる事ができる」と言う。

そしてラストに、「この恋は偶然ではなく必然なのだ、準備は整った。決断をするのは私達だ」とマリオンがダニエルに語る長い台詞は、東西ドイツの統合を願うアジテートとなって、観客であるドイツ人に訴えかけている。

『ベルリン天使の詩』公開から2年後、ベルリンの壁は崩壊しドイツは再統一された。

全ての魂は一つになったのだ。

マダムのショートショート 〜The Low 2〜

なんだかやけになまぬるい風が吹く夕方だ。

うちを出ると目の前を黒猫が横切った。やたらと尻尾が短いやつだが、近親相姦で生まれるというのは本当だろうか?

店には15分も早く着いた。俺は遅刻が嫌いだ。

ドアを開けると、モニターにブロンディが映っている、素敵だ。再結成されたのは知っているが、やっぱりHeart of Glassのデボラは桁違いだ、キラキラしてる。天使みたいっていうのは、こういうのを言うんだろう。
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俺は店内を見回した、適当なテーブルについて、ビールを飲もう。店には太ったアメリカ人のカップルと、若い中国人のグループがいた。アメリカ人の男の方は、「秋葉原」と書かれたTシャツを着ている。

でかいモニターがよく見えるスツールに腰を下ろした、暇つぶしにはもってこいだ。

コロナが運ばれてきたとき、頭上のモニターがチカチカ点滅し始めた、新手のMVだとしても目に悪い。店員を呼ぼうと手を挙げた瞬間、モニターに女が映った。物凄い美人だ。実際見たら多分震えがくる、それくらい綺麗だった。

俺は画面から目を離さずに、コロナの中へライムを押し込んだ。

「待たせたかしら?」

画面の女が言う。俺か?俺に聞いてんのか?

女の唇はデボラと同じくらい赤くてツヤツヤしている、目も髪も真っ黒だ。物凄く襟ぐりの深い服を着て、魅惑の谷間を見せつけんばかりにしている。なんというか、色々なものが「たっぷりしている」。

俺は周りを見渡した。コロナなんてこんな瓶、三口で終わっちまう。誰も俺の頭上に女が映ってるなんて気づいてない様子だった、どう考えてもおかしいと思うんだが、もしかしたら一番おかしいのは俺かもしれないと思って、それ以上周りのことを考えるのはやめた。どうせ明日にはみんな忘れちまうんだ。

「依頼ってなんだ?」

単刀直入に俺は聞いた、いい女に対して無駄口は叩かないのが男ってもんだ。口説く隙もなさそうなら尚更だ。

「ここのオフィスに、小さな雀の剥製があるのよ。それを今夜中に、港まで持って行って欲しいの。どちらもオーナーに話をつけてあるから、言えばわかるわ。」

俺は残りのコロナを飲み干した。

ヤバそうな取引なら、それなりの見返りってもんがある。

「御礼は3ヶ月分の給料と」

カメラが引いて、女の全身が映し出される。非常にゆっくりと。

女は黒いスカートを履いて、ソファに座っていた。カメラが止まると、優雅に脚を組み替えた。こんなに見事な脚、見たことない。俺は遠くて阿呆みたいにぽかんとしてるウェイターを呼んでコロナのお代わりを頼んだ、2本。
出来ることならこの女にも何かご馳走したいが所詮はモニター越しだ、叶わぬ片思い。

「きちんと遂行出来たら、お望みのものを差し上げるわ」

なんてこった、面白くなってきたじゃねえか。

俺は頼んだコロナの1本を秋葉原好きのアメリカ人に押し付けると、お勘定をしてオフィスに向かった。

マダムのショートショート ~The Low~

 

バロウズに捧ぐ

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午後3時にかかってくる電話にロクなものはない。

 

「日曜日の午後3時というのは何かをするには遅すぎるか、早すぎるのどちらかだ」と言った作家がいたような気がするが、思い出そうとするにはあまりにもテレビがうるさすぎる。

朝11時まで飲んでいた酒が効きすぎていてまだベッドから起きられない。

テレビに映っているのはいずれも間抜け面・腑抜け面・アホ面のどれかで、例外はない。

枕元の電話が鳴る。

 

「ハーイ。あたしよ。」 

 

セクシーな声だ、悪くない。 

「昨日Holyのパーティで会ったでしょ、覚えてない?」

 

行ってるわけがない。大体パーティなんて浮かれた言葉を聞いたのは何年振りだ?

 

「まだ酔っぱらってるの?」

 

「Holy」なんて名前のつくパーティにどんな奴らが来てるかって、想像しただけでも反吐が出そうだが、こいつは別物のようだ。俺は受話器を耳に押し付けたまま、女に話を続けさせようと決めた。

 「ああ、覚えてるよ」

 

昨日の夜はさんざんだった、

近所のバーに行ったら隣で飲んでた男女が痴話喧嘩をおっぱじめたんで「カナリア」に行った、そしたら昔の知り合いにばったり出くわして(お互い歓迎しない顔だったが仕方ない)、なんとなく連れ立ってバーに行ってそこのバーテンがホモかどうか賭けた、「である」に賭けた俺は負けて2人におごるハメになった、最後は顔なじみのホステスの家に無理やり転げ込んで3人でテキーラを飲んではちゃめちゃやった、

明け方にはホステスはトイレの床に伸びていた。
もう一人のそいつはどうにかホステスの尻を拝めないかと同じように床に転がっていて、俺はそいつの尻ポケットからキャメルを1本抜き取ると、意気揚々と、ーってわけには無論いかなかった、酒臭い青色吐息でマンションを後にした。日曜の朝、11時。いつも通り。

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「昨日約束した通り、頼みごとがあるのよ」

 

俺はテレビを消した。たとえ地球が破滅したってこいつらは馬鹿話を続けてるだろう。

 頭は若干痛むが、アスピリンがどこかにあるはずだ、サイドテーブルの引き出しに手を伸ばした。手に触れたのはいつ買ったかすら思い出せないコンドームだった。

 

「ねえ、聞いてる?」

ゾクゾクしてきた。まるで羽毛で耳を撫でられてるみたいだ。とりあえずシャワーは浴びておこう、人生いつ何が起きるかわからない。

 

女は、6時にハードロックカフェで待ってるわ、と言って電話を切った。
アスピリンレッドブルで飲み下し、クレジットカードの支払を催促する債権会社の留守番メッセージを消去し(なんだってあいつらはそろいも揃ってあんな喋り方なんだ?)、シャワーを浴びて出てくると、時計の針は4時10分前まで進んでいた。よしよし。魔の3時はもう終わりってわけだ。

洗面台の鏡に向かって俺は自分の顔と向き合った。ろくでもない顔だが、人間諦めが肝心だ。死んだ親父の口癖だった。親父に免じて、今日は顔のことは忘れよう。

 

 

Photo by ヒデ

 

 

 

 

 

ヒデとマダムの寅さん語り 〜寅次郎物語〜

スコセッシの『沈黙』と『寅次郎物語』のリンク

【マダム】先日、ザマさんがスコセッシの『沈黙』評で、イッセー尾形も賞賛してたじゃないですか。おとつい、去年BSで録画してあった寅さん観たんですよ、秋吉久美子編。

大阪かどっかの駅のおまわりがイッセー尾形だったんですけど、その演技にうちの亭主膝叩いて大絶賛、あれー、イッセー尾形って芸人だったっけ?なんて思っていた矢先のレポだったんで、タイムリーでした。

次郎物語あらすじ
寅さんの稼業仲間がおっ死んで、残された一人息子がとらやを訪ねてくる。義理に駆られた寅さんが、蒸発したという母親(五月みどり!)訪ねて、死んだ友達の息子と旅道中。

旅の途中に寄った旅館で子供が熱を出し、たまたま隣室に泊まっていた隆子という女性が看病に当たってくれる。旅館の主人は二人を夫婦と勘違いしてー

【ヒデ】寅次郎物語を観ました。
これは奥が深い後期の傑作ですね。
子供が死の淵から助かる事を契機に、これまで人生を無駄に過ごしていたと思っていた寅次郎、秋吉久美子五月みどり、満男が再生する物語でした。
しかもそのキーワードが、

「生きていれば、『あー生きてて良かった!』と思う事があるだろう。そのために生きてるんじゃないのかい」

というありふれた言葉である事が、観客である僕をも救ってくれました。
本作で、仏は愚者を愛するという御前様の言葉がありましたが、これは『沈黙 サイレンス』のキチジローに当てはまるように思います。

【マダム】こんなところでも思わぬリンクがありましたね。
そのセリフを言う時の御前様=笠智衆の表情がまた!
どこか寂しそうで、でも晴れやか。この世の皮肉に気づいて、そして静かに受け入れる懐。どこまでも透き通っていて、凄みありけり。

亡くなった親友の位牌に語りかけるシーンもぐっと来ちゃいましたね、冷やで一杯やりながら、もっといい生き方はなかったのかいと問う寅さんの丸めた背中が切ない。その直前に出てくる宿屋のいかにも大阪!なノーテンキオバチャンとの対比も切なさ増して。

満男の再生も係っていたのか!
カメオ出演五月みどりの演技も良かったですよね。

寅さんという聖なる愚者

【ヒデ】同業仲間だった「般若の政」の位牌に語りかけるシーン。あれは寅次郎自身の事でもありますよね。それが、ストーリーの後方で秋吉久美子演じる隆子が語る、「人生を粗末にしてしまった」というのに重なっていく。
『寅次郎物語』での寅次郎は、いつにもまして自分を俯瞰で見ていますね。

母親と再会した後、船着場で一緒に柴又に行くという子供にも、「俺のような人間になっていいのか?」と言うし、柴又から旅にでる時さくらに、「仕事とは、ひろしのように家族の為に汗と油にまみれて一緒懸命働く事を言うんだ、俺ようなテキ屋なんて仕事とは言えない」といったことを言う。
ラストでは幸せそうな五月みどり達を見て、自分達は会ってはいけない人間なんだと屋台の陰に身を潜め、そして、あの船長がてて親ならば大丈夫だとつぶやく。

秋吉久美子との駅での別れで、彼女に一緒に柴又に来ないかと言えないのも、五月みどりを不幸にした自分の友達と自分が重なるからではないだろうか?
自分が愚者である事を認識して、人を愛し、愛を与えるだけで見返りを求めない、「無償の愛」「同体の慈悲」と呼ばれる仏さまのお心に通じている。まさに寅次郎の体に仏さまが宿ったような・・・
聖なる愚者に寅次郎はなっていたんだね。

【マダム】思いがけなく、普段の寅さん以上に深いテーマでしたね、寅次郎物語。いや、山田洋次監督なんでどれとっても深いんだけど、ザマさんが言うように、寅さんの言葉や態度がよりストレートに刺さるというか。観ている人個々人の気持ちや人生に、そっと寄り添ってくれる、そんな一本でしたね。

それにしても秋吉久美子って人は、うらぶれた表情や、「ちょっとだけふしあわせ」な役が、本当によく似合いますね〜。

かなしみの先に見える光

【ヒデ】最後の夜。秋吉久美子が寅次郎の部屋にやってきて、「いつか、父さんに会えるときがくるやろうな」と寅次郎にもたれるようにして言うシーン。その後の、「私、粗末にしてしまったのね、大事な人生なのに」と泣き伏せるシーン。たまりません。抱きしめたくなりました。
そして駅での別れで、寂しそうな微笑みから、一瞬悲しみの表情になるところ、いいですよね。なんで「俺と一緒に行こう」と言わないんだよ寅さん、と思う。

この表情っていつもは柴又駅でマドンナを見送る時の寅さんの表情ですよね。
秋吉久美子が演じる隆子もまた、寅次郎と同じ傷ついた魂を持っている。
そして、それはリリーに通じているかもしない。

【マダム】傷つけ、傷つく時、人は醜くなってしまうときがある。でも相手の幸せを願って悲しみを堪えるとき、他者を慮るとき、かなしみの先に見える光がある。

なんだか、そんな光を見させてもらった気がしますね。

ヒデのつぶやき映画評 ~マーチン・スコセッシ『沈黙』を観て~

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マーチン・スコセッシ監督の映画『沈黙 サイレンス』を観た。

かつてスウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン監督の作品にも邦題が同じ『沈黙』という、神の不在を描いた映画があった。
遠藤周作の原作を読んでいない僕は『沈黙 サイレンス』も神の不在を描いた作品かと思っていたのだが、
映画を観ていくうちに、この作品は信仰の在り方を描いた映画であった。

キリスト教に対する徹底的な弾圧が行われた江戸時代に日本にやってきた、アンドリュー・ガーフィールド演じるポルトガル人宣教師ロドリゴは当初、弾圧され、貧しく生きる隠れキリシタン達の救いになる事に喜びを感じる。だが、生き延びる為に棄教を繰り返す、窪塚洋介演じるキチジローの密告により、幕府に囚われたロドリゴは自らをキリストに重ねていく。  
 そして殉教する事によって囚われた隠れキリシタン達を救おうとするのだが…。

無宗教の僕は、殉教という崇高さにキリスト教がやらかしてきた植民地主義的な支配の奢りやISのテロリズムの恐怖を感じてしまう。

しかし、奉行の井上(イッセー尾形が素晴らしい)はロドリゴに対して、棄教しなければ「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と、
隠れキリシタン達を拷問にかけると迫るのだ。

ずっと沈黙していた神がそこで、ロドリゴに語る。

僕はこの映画に殉教と棄教という対比を凄く感じた。それは、教義と現実の矛盾という対比でもあり、ロドリゴとキチジローとの構図でもある。最初キリストとユダのようだった2人の対比は、棄教を繰り返し逃げ惑う「弱い人間」と軽蔑していたキチジローが、次第に自分の中に潜むもうひとりの自分、という構図に変わっていく。
卑近で弱い中にこそ聖なるものがあるのではないかと変わっていくのだ。

それはベルイマンの『沈黙』で何も語らず、何もできず、ただ神の沈黙に苦しむ人々の全てを見ている少年が神の目線だったように。あるいはスコセッシの『最後の誘惑』でイエスが処刑される直前にマグダラのマリアとのありふれた幸せを夢見るように。

僕はキリスト教のまともな知識を持っていないので、もしかしたら非常にとんちんかんな感想なのかもしれないが、ロドリゴがキチジロー(弱さ)を許した時に、神の沈黙(神の弱さといったら語弊があるか)を受け入れられるということを、この映画は描いているように思えた。

日本の俳優たちの演技も素晴らしく、またステロタイプではなく、キリスト教を弾圧する側の理論もきちんとと描かれており、3時間近い作品ではあるが全く飽きずに観る事ができた。