ヒデとマダムの問わず語り 〜好きにさせてよ〜

とあるアンダーグラウンドなバーのオーナー「ザマさん(ヒデ)」と70年代生まれの通称「マダム」が、アート中心に好き勝手語るバーチャルサロンです。よろしくどうぞ。

マダムのショートショート 〜倦怠〜

締め切ったカーテンからわずかに溢れる朝靄の光、2人の人間が気兼ねなく寝返りを打つには少し窮屈なセミダブルのベッド、糊がついていないためにかえって馴染みやすいシーツは角からめくれて剥き出しのスプリングマットに裸の爪先が触れる。

傍らの女はこちらに背中を向けたまま、柔らかな寝息を肩で伝えている。

遠くで派手に空き缶を蹴る音が響き(どうやらうまいこと電柱に命中させたらしい)、追いかけるように吼えたてる犬の鳴き声がこだまする。

何気なく女の肩に触れてみようかと思ったが、「何気ない」気分の奥底に沈殿する、作為的なある種の企みに気付き、ずり落ちたブランケットをかけ直すにとどめた。

サイドボードに置いてあったはずの時計、アンティーク風の、よくあるあの手の目覚まし時計が見当たらない。恐らく女が意図を持って(「ここにいる時は時間を気にしないで欲しいの」)シャワーを浴びる際に、洗面所かどこかにでも持って行ってしまったのだろう。

女は、昨夜の微睡みのきわに、明日目が覚めたらブランチをしに行きたいと言った。角に新しくカフェが出来たのだと。

湯気を立てるコーヒーに、ハム&チーズのクロックムッシュ、ホワイトマッシュルームとグリーンリーフのサラダ。白ワインを一杯オーダーするのもいいかもしれない、確かにそれは彼の好物に違いなかった。スタンドで比較的リベラルなニュース誌を買って隅々まで読み込む、所々議論を交わしながら、ピカピカに磨かれた灰皿で最初の煙草の一本をねじり消す密かな悦び。

洗い立ての明るい顔に赤い紅だけを引いた女と並んで、街路を見ながら2本目の煙草に火を点けるのは、どれほど満たされた気持ちになるだろうか。

だがしかし彼は、その気持ちがどういうものだか分かりきっていた。彼を満たすものの限界と彼自身の容量。それはこれまでにも幾度となく繰り返され、値踏みされ、消費されてきたデジャブ/瞬間だった。

丸テーブルの向こうで優雅に脚を組み直し(ああ、前の晩の狂騒よ!)、コーヒーの後で炭酸水をオーダーする女。小さなハンドバッグからコンパクトを取り出し、剥げかけた口紅を気にしながらも新たに引き直さないのは、「部屋に戻ってもう一度」のサインなのだ。

彼には全てわかっていた。
あと少しで傍らの女が目を覚まし、彼の首に手を回して水を一杯持ってきてくれとねだり、起き抜けにタバコを吸うためカーテンと窓を開けるよう頼むことを。

裸のまま部屋を横切り、トイレのドアを完全に閉めないまま用を足し、そしてその最中に「わざわざ」彼と何か会話を交わしたがることを。
(それはさっきまで見ていた夢の断片についてであり、ここ数週間のうちに新しく買い物リストに加わった新しいシューズの値段についてであり、ふと思いついたオーブン料理のレシピについてのアイデアであった)

女の視線、物腰、あらゆる言葉遣いは「くびったけ」の峠を越して、関係が愛着の領域に入りつつあることを明確に指し示していた。

やがてこの小さなアパートにも朝陽が差し込む、静寂を伴った光は本棚の枠にうっすらと積もった埃や、カーペットの色褪せたゴブラン織りの柄を浮かび上がらせるだろう。

彼はその全てを受け入れ、慈しんだ。彼と彼女を取り巻く世界の諸々を。



その晩、彼は女のアパートに帰らなかった。
その次の日も、その次の季節も、その次のクリスマスも、女の元に帰ることはなかった。


女に残されたメッセージは、何一つなかった。



Photo By ザマ