ヒデのつぶやき映画評 ~マーチン・スコセッシ『沈黙』を観て~
マーチン・スコセッシ監督の映画『沈黙 サイレンス』を観た。
かつてスウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン監督の作品にも邦題が同じ『沈黙』という、神の不在を描いた映画があった。
遠藤周作の原作を読んでいない僕は『沈黙 サイレンス』も神の不在を描いた作品かと思っていたのだが、
映画を観ていくうちに、この作品は信仰の在り方を描いた映画であった。
キリスト教に対する徹底的な弾圧が行われた江戸時代に日本にやってきた、アンドリュー・ガーフィールド演じるポルトガル人宣教師ロドリゴは当初、弾圧され、貧しく生きる隠れキリシタン達の救いになる事に喜びを感じる。だが、生き延びる為に棄教を繰り返す、窪塚洋介演じるキチジローの密告により、幕府に囚われたロドリゴは自らをキリストに重ねていく。
そして殉教する事によって囚われた隠れキリシタン達を救おうとするのだが…。
無宗教の僕は、殉教という崇高さにキリスト教がやらかしてきた植民地主義的な支配の奢りやISのテロリズムの恐怖を感じてしまう。
しかし、奉行の井上(イッセー尾形が素晴らしい)はロドリゴに対して、棄教しなければ「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と、
隠れキリシタン達を拷問にかけると迫るのだ。
ずっと沈黙していた神がそこで、ロドリゴに語る。
僕はこの映画に殉教と棄教という対比を凄く感じた。それは、教義と現実の矛盾という対比でもあり、ロドリゴとキチジローとの構図でもある。最初キリストとユダのようだった2人の対比は、棄教を繰り返し逃げ惑う「弱い人間」と軽蔑していたキチジローが、次第に自分の中に潜むもうひとりの自分、という構図に変わっていく。
卑近で弱い中にこそ聖なるものがあるのではないかと変わっていくのだ。
それはベルイマンの『沈黙』で何も語らず、何もできず、ただ神の沈黙に苦しむ人々の全てを見ている少年が神の目線だったように。あるいはスコセッシの『最後の誘惑』でイエスが処刑される直前にマグダラのマリアとのありふれた幸せを夢見るように。
僕はキリスト教のまともな知識を持っていないので、もしかしたら非常にとんちんかんな感想なのかもしれないが、ロドリゴがキチジロー(弱さ)を許した時に、神の沈黙(神の弱さといったら語弊があるか)を受け入れられるということを、この映画は描いているように思えた。
日本の俳優たちの演技も素晴らしく、またステロタイプではなく、キリスト教を弾圧する側の理論もきちんとと描かれており、3時間近い作品ではあるが全く飽きずに観る事ができた。