ヒデの映画評 〜ベルリン 天使の詩『分断と統合』〜
先日、鎌倉の川喜多映画記念館で、数十年ぶりに『ベルリン天使の詩』を観てきた。
「子供が子供だったころ、自分が子供と知らず、全てに魂があり魂は一つだと思っていた」
という詩の一節からはじまる『ベルリン天使の詩』には、いくつかの対比(分断)が、ヴィム・ヴェンダース監督が敬愛する小津映画のシンメトリックの構図のように、随所に散りばめられている。そしてその対比が一つに統合されていく物語であった。
対比のフラクタル
冒頭の詩「子供が子供だったころ」という短いセンテンスの中に、大人とは子供を忘れた子供という対比(分断)があり、「全てに魂があり魂は一つだと思っていた」の言葉の中に統合の予兆を感じさせる。
映画が進むにつれ、天使を見る事ができる子供と、見る事ができない大人。人々の心の声を聴くだけで救えることのできない天使と、孤独や苦悩を抱える人々。モノクロームとカラー。苦悩と歓喜。過去と現在。男と女。そして東西のベルリンと、いくつもの対比が描かれる。
寄り添うだけで人を救うことも出来ず、山本耀司のコートを着て図書館に屯す天使達も、天使のダニエルが自らを「霊」と言っていたように、天使から分断された者たちなのかもしれない。
そしてその対比が統合へ向かっていく。
ナチの支配と敗戦による東西の分断という過去は、ホメーロスという古代ギリシャの吟遊詩人の名を持った老人によって、現在に語り継がれようとしている。
子供を忘れた大人は元天使で人間となって人生を謳歌しているピーター・フォーク(本人役)として。
天使と人間は、主人公の天使ダニエルがサーカスの空中ブランコの女、マリオンに恋をして人間となる事で…。
苦悩と歓喜は人間である事の痛みや、或いは苦しみさえもが生きている喜びであると…。